辨 |
「春の七草」とは、人日(じんじつ,旧暦正月七日)に七草粥(七種粥)に入れて食う、七種類の若菜。
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「せり、なづな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これや七草」と詠われる(下の誌を見よ)。
通説では、
「せり」は、セリ、
「なづな」は、ナズナ、
「ごぎょう(御形・御行・五行)」は、ハハコグサ
「はこべら」はハコベ
「ほとけのざ(仏座)」は、(現在のホトケノザではなく)田平子(たびらこ)。
「すずな」は、カブ、
「すずしろ」は、ダイコン
であるとする。
ただし、仏座すなわち田平子の正体について、コオニタビラコに当てる説、キュウリグサに当てる説などがある。
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「ほとけのざ(仏座)」の正体については、古くから議論がある。
貝原益軒(1630-1714)『大和本草』(1709)に、「黄瓜菜(たびらこ) 本邦人曰、七草ノ菜ノ内、仏座是ナリ。四五月黄花開く。民俗飯に加ヘ蒸食ス。又アヘモノトス。味美シ、無毒。」とある。4-5月に黄色い花をつけるのだから、黄瓜菜はキク科のタビラコの仲間(オニタビラコ・コオニタビラコ・ヤブタビラコなど)であろう。(なお、明・李時珍『本草綱目』菜部に載る黄瓜菜は、オニタビラコ又はコオニタビラコであろうという。『新注校定国訳本草綱目』8/56 北村)。
小野蘭山(1729-1810)『本草綱目啓蒙』23(1806)に、「鷄腸草 カハラケナ タビラコ ヲハコベ」、「正月人日七種若菜ノ内タビラコト稱スル者是ナリ。・・・梢ニ穂ヲ出シ青白花ヲ開ク。五瓣甚ダ小ニシテ蕊ナシ。三月ニ多ク開ク。云々」と。この鶏腸草はキュウリグサである。
牧野富太郎は、貝原の説に従い、その黄瓜菜をコオニタビラコと特定した(1924)。今日、この説が一般に受け入れられている。
しかし、『壒嚢抄(あいのうしょう)』(1446)・『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』(1548)・『連歌至宝抄』(1585)などには、仏座(ほとけのざ)と田平子(たびらこ)が並んで挙げられており、両者は同一ではありえないとする反論がある。
明治43年(1900)正月に、病床の正岡子規(1867-1902)のもとに岡麓(1877-1951)が手土産に持ってきた七草の寄せ植えには、佛の座改め龜野座と田平子とが、別に植えられていた(『墨汁一滴』)。
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訓 |
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説 |
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誌 |
早春に若菜を食う行事は、中国に起源する。
『荊楚歳時記』(6c.)に「正月七日を人日(じんじつ)となす。七種の菜を以て羹(あつもの。今日の言葉で言えば、汁物・スープ)を為る」とある。
(正月七日を人日というのは、新年になって この日初めて人事を占うことから。)
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日本では、早春の野に若菜を摘むことは、『万葉集』の初期から歌に詠われている。
例えば、巻1 開巻冒頭の雄略天皇(late 5c.)の歌に、
籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふぐし)もよ み掘串持ち
この岳(をか)に 菜摘ます児 家聞かな 名(な)告(の)らさね
そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそ居れ 敷きなべて 吾こそ坐せ
我こそは告らじ 家をも名をも
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正月七日に若菜を食うことは、『皇太神宮儀式帳』(804)に初出、「七日、新菜御羹奉作」と。
紀貫之『土佐日記』に、承平5(935)年正月七日、土佐の大湊に泊っていた著者は 若菜を差し入れられて、「わかなぞ けふをばしらせたる」と記す。
清少納言『枕草子』(ca.1008)131には、「なぬかの日のわかなを、六日人のもてき、さわぎとりちらしなどするに、見もしらぬ草を、こどものとりもてきたるを・・・」と。
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平安時代には正月の「子(ね)の日祭り」にも、人々は野に出て小松を引き 若菜を摘んだ。
君のみや 野辺に小松を引にゆく 我もかたみに つまむわかなを
(よみ人しらず「子日におとこのもとよりけふはこ松ひきになんまかりいづると
いへりければ」、『後撰集』)
人はみな 野べの小松をひきにゆく けさのわかなは雪やつむらん
(伊勢大輔「正月七日子日にあたりて雪ふり侍けるに読る」。『後拾遺集』)
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若菜摘みは、早春の行事としてしばしば歌に詠われる。
若菜は、しばしば若い女性の隠喩である。
み山にはまつの雪だにきえなくに 宮こはのべのわかなつみけり
春日野のとぶひののもり いでてみよ 今いくかありてわかなつみてん
梓弓 をして春雨けふふりぬ あすさへふらば 若菜つみてむ
(以上、読人しらず。『古今集』)
きみがため春の野にいでてわかなつむ 我衣手に雪はふりつつ
(光孝天皇(830-887,在位884-887)「仁和のみかど、みこにおましましける時に、
人にわかなたまひける御うた」。『古今集』『百人一首』)
春日野のわかなつみにや しろたへの袖ふりはへて人のゆくらん
(紀貫之(ca.868-ca.945)。『古今集』)
かすがのにおふるわかなを見てしより 心をつねに思やる哉
(凡河内躬恒「しはす許に、やまとへ事につきてまかりけるほどに、
やどりて侍ける人の家のむすめを思かけて侍けれど、やむごとなきことによりて
まかりのぼりにけり。あくるはる、おやのもとにつかはしける」。『後撰集』)
かすがのにわかなつみつゝ よろづよをいはふ心は 神ぞしるらん
(素性法師「内侍のかみの 右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、
四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた」)
けふよりは 荻のやけはらかきわけて わかなつまんと たれをさそはん
(平兼盛(?-990)。『後撰集』)
かすみたつかすがのゝべのわかなにも なり見てしがな 人もつむやと
(よみ人しらず、『後撰集』)
かすが野は 雪のみつむとみしかども おひいづるものぞ わかななりける
(和泉式部。『後拾遺集』)
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平安時代には、旧暦正月望日(15日)に、「七種粥(ななくさがゆ)」を食った。
『延喜式』(927)によれば、こちらは 7種の穀物(米・アワ・ヒエ・キビ・アズキ・ゴマ・村子(みの,ムツオレグサ))で作った粥。この習慣は、今日では小豆粥として遺る。
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「ななくさ(七草・七種)」の菜が文献に現れるのは、平安時代後期から。
君がため 夜越しにつめる 七草の なづなの花を 見てしのびませ
(源俊頼(1055-1129)『散木奇歌集』ca.1128)
うづゑ(卯杖)つき ななぐさにこそ お(老)いにけれ
としをかさねて つめるわかなに (西行(1118-1190)『山家集』ca.1178)
一条兼良(1402-1481)『公事根源』(ca.1422)には、これらより早く 延喜11(911)年正月七日に、醍醐天皇から「七種菜」が献供されたとする記事が載る。
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「ななくさ(七草・七種)」の菜の内容については、
『拾芥抄』(鎌倉時代中期)に、「薺(なずな)・蘩蔞(はこべら)・芹(せり)・菁(すずな)・御形(ごぎょう・おぎょう)・須須之呂(すすしろ)・仏座(ほとけのざ)」と。
『年中行事秘抄』(1293-1298)に、「薺・蘩蔞・芹・菁・御行・須々代・仏座」と。
(この七種類は、『河海抄』(after 1367)・『公事根源』(ca.1422)にも踏襲される。)
『壒嚢抄(あいのうしょう)』(1446)に、「せり・なつな・五行・たひらく・仏の座・あしな・みみなし、是や七種」と。
『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』(1548)に、「七草。芹・薺・五行・田平子・仏座・須須子・蕙」と。
『連歌至宝抄』(1585)に、「せり・なずな・ごぎょう・たびらこ・ほとけのざ・すずな・すずしろ、これも(これら,これぞ)七草」と。
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『なゝくさ草紙』(室町時代)には、「そもそも正月七日に、の(野)にい(出)でゝななくさをつ(摘)みて、みかど(帝)へぐご(供御)にそなふるといふなるゆらひ(由来)をたづぬるに、もろこし(唐土)そこく(楚国)のかたはらに、大しうといふものあり。・・・大しうおも(思)ふやうは、二人のおや(親)の御すがたを二たびわか(若)くなさまほしくおも(思)ひて、あけくれてんたう(天道)にいの(祈)りけるは、「わがおやの御すがた、ふたゝびわかくなしてたびたまへ」と、ぶつじん(仏神)三ぼう(宝)にうつた(訴)へ・・・三七があひだ(間)つまさき(爪先)をつまだてゝかんたん(肝胆)をくだ(砕)きいのりける。さてもしよてん(諸天)しよぶつ(諸仏)はこれをあはれみたまひ三七日まん(満)ずるくれかた(暮方)に、かたじけなくもたいしやくてんわう(帝釈天王)はあまくだ(天下)りたまひ、大しうにむかつてのたまふやうは、「・・・しかるにしゆみ(須弥)のみなみ(南)にはくがてふ(白鵞鳥)といふとり(鳥)あり。かのとりのながいき(長生)をする事八千ねん(年)なり。このとりはる(春)のはじ(初)めごとに七いろ(色)のくさ(草)をあつ(集)めてぶく(服)するゆへにながいきをするなり。・・・七色のくさをあつめてやなぎ(柳)の木のばん(盤)にのせて、たまつばき(玉椿)のえだ(枝)にて、正月六日のとり(酉)のとき(時)よりはじ(始)めて、このくさをう(打)つべし。とり(酉)のときにはせり(芹)といふくさをうつべし。いぬ(戌)のときにはなづなといふくさをうち、い(亥)のときにはこけう(御形)といふくさ、ね(子)のときにはたひらこ(田平子)といふくさ、とら(寅)のときにはすゝなといふくさ、う(卯)のときにはすゝしろといふくさをうちて、たつ(辰)のときには七いろのくさをあはせて、ひがしの方よりいはゐ(岩井)のみづ(水)をむすびあげてわかみづ(若水)とな(名)づけ、此水にてはくがてふ(白鵞鳥)のわた(渡)らぬさきにぶく(服)するならば、一時に十ねんづゝのよはひ(齢)をへ(経)かへり、七時には七十ねんのとしをたちまちにわかくなりて、そののち八千ねんまでのじゆみやう(寿命)を、なんじ(汝)おやこ(親子)三人へさづ(授)くるなり」とをし(教)へ給ふぞありがたき。・・・」と。
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はつ市や雪に漕来る若菜船 (嵐蘭,『猿蓑』1691)
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正岡子規(1867-1902)の明治34年(1901)の随筆(『墨汁一滴』)に、次のようにある。
「一月七日の會に麓(ふもと,岡麓,1877-1951)のもて來(こ)しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠(かご)の小く淺きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札(ふだ)を立て添へたり。正面に龜野座といふ札あるは菫(すみれ)の如き草なり。こは佛(ほとけ)の座とあるべきを緣喜物(えんぎもの)なれば佛の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行(ごぎやう)とあるは厚き細長き葉のやや白みを帶びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子(たびらこ)の札あり。はこべらの事か。眞後(まうしろ)に芹(せり)と薺(なづな)とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜とあるは丈三寸ばかり小松菜のたぐひならん。眞中(まんなか)に鈴白の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪(あかかぶら)にて紅(くれなゐ)の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊にきはだちて目もさめなん心地する。『源語(げんご)』『枕草子』などにもあるべき趣(おもむき)なりかし。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて來し病めるわがため (一月十七日)」
これによれば、ホトケノザの正体がよく分らない。タビラコをハコベかとするのは、子規もいぶかったものか。しかしいずれにせよ、ホトケノザとタビラコは、別物であった。
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